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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲

なんか、前に『ALWAYS 三丁目の夕日』の感想を書いた時にちらっとだけ名前を出したらむしろ『オトナ帝国』で検索してこのblogにたどり着く人のほうが多いっぽい気配なのが非常に申し訳ないので、こちらについても少し触れてみることにしてみましたのでした。


確か前に『三丁目の夕日』で触れた時には「『オトナ帝国』の方が昭和ノスタルジーモノとしては好き」だとかそんな感じのことで書いたような記憶があるのですが(古い文章は読み返すのが恥ずかしくて消したくなるので確認しませんですとも!!)、落ち着いて考えてみると、「昭和ノスタルジーモノ」って言ったって昭和30~40年代ぐらい舞台設定の『三丁目の夕日』とあくまで現代、平成十何年だかの『オトナ帝国』とを比較するのって、「時代劇」と「太秦映画村にハマって通ってる人の物語」を比較するような無理矢理さがあるなあということに今更ながらに気付いてしまったり。

前に『三丁目の夕日』について書いたときは、「ノスタルジーで泣かせではなく、昭和30~40年代ぐらいの当時再現か、原作世界観再現かが主目的のような印象があってそういう所は好感かも」という様な感想を抱いていて、今もおおよその印象はそんな感じなんですが、ただちょっとあれから自分の中で考えが変わった部分がありまして、あの映画の世界は、全くそのまま「昭和30~40年代ぐらいの当時再現」ではなく「昭和ノスタルジー世界観再現」なのかなあ、というようなことを思ったのでした(原作は相変わらず読んでいないので、その要素はよくわからないのですが)。

自分の中での「昭和30~40年代ぐらい像」というと、2chとかの>>1の故郷のコピペ【*1】とか、ああいうおどろおどろしいような雰囲気な印象があるので、まあそれも相当に歪んでる「昭和30~40年代ぐらい像」ではあるんですが、それはそれとして、やっぱり『三丁目の夕日』で描こうとしていたものも、ベクトルは違えど自分の勝手な「昭和30~40年代ぐらい像」と同じく「ファンタジー昭和30~40年代」なのではないかなあと。

【*1】
我々は1が何故このようなスレッドを立てたのかという
疑問を解決するため、1の故郷である群馬県に向かった。
「まだ日本にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に失礼だと咎められた。

小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
高度成長だの、神武景気だの、オリンピックだので浮かれていた
我々は改めて農村の現状を噛み締めていた。

ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子が申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。

我々はこの時初めて1を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、農村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は1の母親から貰った干し柿を手に、
打ちひしがれながら東京へと帰路についた


で、だからといって「ファンタジー昭和30~40年代」だから悪いとか言うわけではなく、ある程度世間でも共通認識となっている「ファンタジー昭和30~40年代昭和ノスタルジー(=原作世界?)」的世界観をCGとか力いれて作ってみようぜ的な部分があんまりあざとい要素もなくて良かったなあという『三丁目の夕日』に対する印象は今も変わらないので、つまりはいわゆる「ジャンル:昭和ノスタルジー」というものが、イコールそのまま「現実の昭和30~40年代ぐらいに対するノスタルジー」というわけではないというような事にやっと気付いたという(そういう気持ちを抱いている人もいるんでしょうが)、そういうような事なのでした。あれは、ああいう世界観の呼称なんだと。「ゴスロリ」とか「中華スタイル」とか「中世ヨーロッパ風ファンタジー」とか「刑事モノ」だとかと並びで「昭和ノスタルジー」という世界観があるというただそれだけの事なんだなあと。

さて、『クレしん』劇場版の話です。
『オトナ帝国』の自分の一番好きな部分はといいますと、やっぱりひろしが靴の臭いを嗅がされて思い出す、あの名シーンです。『オトナ帝国』の良い部分は、物語のツールのひとつとして「昭和ノスタルジー」を利用しながらもそれに単におんぶだっこしてるわけじゃなく、ノスタルジーとは何か、帰りたい、戻りたいというこの郷愁は何なのか、帰りたいというその気持ちは、今は自分がその場所に居ないから、戻れないから、過ぎ去って行ったからからこそ感じるものだ、という事をきちんと物語を通して自分で描いているというところにあると思うのです。

引き離されるのは辛い事だけれども、子供が大人になるように、かつて自分が親から沢山のものをあたえてもらったように、精一杯生きてきたあの頃のその先にある今なんだから、親から子へ受け継がれていくものもあるのだから、今度はそれを代わりにして精一杯生きていく事もできるんじゃないか、やがてこの「今」も同じように懐かしい過去になるのだとしても。そういう大人(ひろし達)の抱える物語と、その大人が子供だった時代と同じ立場である子供(しんのすけ達)の物語とが同時に描かれていて、ああ、泣きたくなるように切なくて、でも、それでいいんだ、というような納得もある話だなあと思ったのでした。あらがえない時間の流れと「子供」に追い立てられられることに反抗を試みる大人の話、だから「オトナ帝国の逆襲」というタイトルなんでしょう。

ところで、ひろしの回想シーンですが、自転車も、上京する列車も、営業周りも、みさえとのデートも、病院への道も、帰宅への道のりも、全て右から左で、左から右へ行くものはなかったのは、流れていく時の表現やリズムと、子供の姿をしたひろしがしんのすけから逃げる時は左から右へ向かってたのとの対比の効果なんでしょうか? その種の演出的なことは既にどっかで誰かが上手く解説してくれてそうな気がするのですが(読みてえ!)。子供の姿というか、あれ、しんのすけの目には年相応のひろしの姿で見えてるんでしょうが。

『オトナ帝国』は「今だっていいんだ!」という話でしたが、だからといって過去も良いものでもあるという事も帰りたいという気持ちが人には湧く事があるという事も否定はされてないので、『オトナ帝国』が好きな人が『三丁目の夕日』を気に入るかどうかは微妙な所ですが、『三丁目の夕日』が好きな人には意外と『オトナ帝国』も合うんじゃないかなあと思うんですがどうか。リアリティのある刑事ドラマが好きな人が2サスの刑事モノを好きになれるかどうかは微妙だけれども、刑事モノ自体が好きならリアリティ重視でも2サスでもどっちでもいけるみたいな、そんな感じで。私自身は、「んー、『オトナ帝国』の方がいいなー」派ですが。

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